2010年12月21日火曜日

鳥取に行ってきました

鳥取は鹿野にある、鳥の劇場に行ってきました。
ここで、三月に「家族アート」を上演します。

劇場と鹿野の町を案内していただき、鳥の劇場の公演「セールスマンの死」を見せていただいた。

環境も、作り手も、お客さんも、東京とは大きく違う。
ちょっと今、細かく説明するエネルギーがなくて書きませんが、
作品も、(鳥取というローカルな規模の)社会における演劇というものも、それを通した作り手と観客の関係も、健やかに育まれている(現在進行形)のだと思った。
ざっくり言うと、作品のつくられることが、お客さんにとって他人事でないように感じた。
それは自然とそうなったのではなくて、間違いなく、鳥の劇場の方々が種を蒔き、意識的に育んできたものが、時間をおいて一つずつ結果になっている。

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鳥の劇場は、鳥取からさらに電車で30分くらい行った浜村という駅にあるのです。
ものすごい独断と偏見で敢えて言うと、東京なら京王線の飛田給とか…?
(うーん。これは、非常に適当。良い例が思いつきません)

まあそういう浜村にある鳥の劇場のことを、鳥取のタクシーのおじちゃんとか、砂丘のジオパーク(なんか展示場)のおじちゃんが、よく知っていた。

岡崎藝術座の神里さんが「池袋のやつは、F/T知らないよ」と言っていたけれど、そうだよなーと思う。
それをF/Tの怠慢とか言うつもりはなくて、東京では単純に不可能と思う。
でも、じゃあそれが鳥取なら出来る、なんてわけはなく、鳥の劇場の皆さんが、そこまで持ってきたのだ。

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東京で作品をつくることについて考える。

環境・作り手・観客などは全部つながっていて、今すでにある状況を変えるのは当然一筋縄ではいかないけれど、でも作り手がどういう意識で何を選ぶかは、決められるのだ。

のだ、というか、決められるのか、と思った。

鳥公園としては(といっても、森さんと話していないので私個人の所見ですが)、「拠点を持つ」という感覚がまだあまり持てません。
レジデンスまでは何となくイメージできるけれど、例えば地点のように、拠点を京都に移すというような、意識的な腰の据え方はできないなーと思います。
先は、分からないけれど。

東京も、たまたまそこにいたからそこで作っていて。
私は東京出身ですが、まぁ思い入れ、あるのだろうけど、東京がどうなろうと他人事のような気がします。

個人的には、演劇の今の状況に対する問題意識とか、なくはないけれど、しかし私なんかは現状に文句たれるばかりなのです。
なので、環境づくりに参画!というのはないですが、作品をつくるにあたって、自分たちの望む場所、人を求めて動いていこう、とは思いました。

さしあたり東京から動くとかいうことはないけれど、今後東京での創作について考える時間は、自然持つのだろうと思います。

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しかし、改めて思うけど、東京は異常。

そこが惹かれるとこでもありますが。
ささくれレベルの小さなくたびれもあります。

と、「東京は」って一口に言っちゃうのも、「お前はどこの誰か」という感じですが。
まあ旅行者気分の余韻ということに。

まだ疲れるほどの何もしていません。

2010年12月19日日曜日

演出ノート5

関係の話、
関係を意志するとかいう話、したけれど、
実は関係ってそんなものじゃないよねと思っていて、

じゃあ何なのさって

いつだって事後的なもの、
ぽつんと立っているところに彼方から降りかかってくるのだ。

2010年12月18日土曜日

演出ノート4

いてもいいけどいなくてもいいなら、いない方がいい。
あってもいいけどなくてもいいなら、ない方がいい。
こういう言い方をすると冷たいと言われるけれど、たぶん誤解だと思う。

私がなんと言おうと思おうと、誰かや何かが存在すること自体には1mmも影響できない。
誰かに「居ていいよ」とか言われる前から後までずっと、そんな言葉とは全く関係なく、「だってあるものはあるんだもの」が続いている。
関係を意志するかどうかという話のつもりだ。

いないと困る人、ないと困るものというのが存在すると信じてしまっているもので、こういうことを言う。
そういうあどけなさのようなものがなしだったら、どうして踏ん張っていられるんだろう。

2010年12月17日金曜日

演出ノート3

関係=変化だと思っている。

距離が変化することが関係するということで、距離が変わらないのなら、もう関係がない(存在しない)も同じに思える。

とは言っても、個々人が日々変わるのだから、個人と個人の間にある距離も変化がゼロのわけはなくて、
だから、私が「関係がない」と呼ぶのは、関係をどうこうする意志がないということで、
だから、「距離を置く」というのも関係仕方のひとつで、そこに関係はある。

2010年12月16日木曜日

演出ノート2

「外部」とか「余白」と言うけれど、それはある「範囲」というものが確定されているからで、とても何となくの漠然とした感覚だが、線状のもので区切られているというのは好かんなぁという感じがある。
そんな風なエリアの決まり方は、そう「決めた」だけであって、実際にはそうはなってないだろうというか。

もっとなにか、じわじわと影響を染み出させる中心になる物、質量が、それはとりあえずもう確かにでーん!とあって、そこからじわじわと周りに力が及んで、距離が離れるにつれぼやーっと力が及ばなくなってふうっとなくなるような感じは?例えば。

同種の物が大量に堆積していて、でも山はところどころ崩れたり、表面からどんどん風化も進んでいて、端はよく分からない、地面と地続きになっている。

2010年12月15日水曜日

演出ノート1

自分より大きな何かに殺してもらう。

自分より大きな何かに自分を(自分の体を)明け渡す。

「もう殺されるんだなぁ。殺されてゆくんだなぁ」と思いながら、そこに体をよこたえる。

演出ノートをひらいてみます

このブログ、だいぶん御無沙汰していました。
最近は頭の中がもっぱら、極めて個人的なことばかりで占められていたためです。
「ぐだめき」というカテゴリーを作ってはみたものの、
やっぱり鳥公園と全く関係ないことはぐだめけぬわぬ、という意識があり。

が、少しずつ、3月の作品の方に頭が向かい出しました。

で、ちょっと今回は試みとして、演出ノートを、

あ、って、どれのことですかね?

まあよく分からないですけどでもよく「演出ノート」という言葉を
目に、耳に、するのでそれだと思うものを、
公開してみようかと思います。

前情報がないと分からない、楽しめない作品というのはいかがなもんか?
という意見はそれは、そうだ、そうです、と思うのですが一方で、
あらかじめ何かが共有されている(この共有、
という言葉も使い方が相当難しいわよねというか、ちょっと私は疑ってるのですが)
ことで楽しみが増える、広がるということは私は、可能性があると思っています。

ねたばれに、なってもいいと思ってもいて。
そりゃやっぱりギャッ!となって欲しいのですが、
まー知らなかったらびっくり出来たのに知ってしまっていたら出来ない
という性質のものには気を付けるとして。
基本的にばれててもいいと思っています。内容は。
もしかしたら台本を公開しておいたっていいのかもしれない。
それは、そういうやり方が向く・向かない(どちらがいいとかでなく)たぶんあって、
私の場合は情報の手渡し方として、そういうことをした方がいいような、
まだ予感ですが、上手くいくかわかりませんが、あります。

というわけで、そういうことをやってみます。
よろしくお願いします。