2011年1月16日日曜日

演出ノート6

当事者について。

何か語ることに対して、「当事者でもないくせに」というのと、「当事者しか語ってはいけないなんてことはなかろ」というのがある。

当事者でない人はどんなに頑張っても当事者にはなれないが、でも当事者がなんぼのものだろう。

というか、
みんながそれぞれにそれぞれの立ち位置からの当事者である。と思う。

…説明が下手くそだ。

イライラするのは、当事者になれないのに情報としては手渡されること。
別にむやみに当事者になりたいわけではない。面倒くさいし。
ただそれなら、いっそ他人事としても知らずにいさせてくれればよいのに、と思う。
巻き込まないで、放っておいて、うるさいうるさいよ!と思う。

出来事からの距離が近いからえらかったり(発言等できる)権力が発生したりするわけではないと考えてみる。
遠くたって、本当に話したかったら話してもよい。
(「よい」とかいうのも本当はおかしくて、許可や権利ではなくて、話したいこと、話せることを話すだけだと思うが)

正直に切実な興味で話すことを望んでいる。
それは、興味がなくてどうでもいいのなら話さなくたっていいということです。
どうも、「自分に近いことならば好きに話してよい」という前提があって、「話していいなら、じゃあ」といって話さなくてもいいことまで話し過ぎていないか?という気がする。
これは勿論、自分も含め。

「当事者なら話してよい」ということを前提に話されることは、どうも当事者の範囲内に囲われてしまうというか、当事者以外には下世話趣味・のぞき趣味以外で接続しようがないものになってしまう気がする。
結局他人はどうでもいいのだ、となってしまう。「当事者!」と言われると。

「みんながそれぞれにそれぞれの立ち位置からの当事者である」と書いたけれど、それは、昨日の私に対して今の私は当事者になりえないということでもある。
昨日、というのは大げさだけど、例えば大人になってしまったら、子供の頃の自分について当事者として語ることは出来ないということ。
それは、あくまで「今の私が思い出して語っている」という距離になるということ。

距離が近いからその語りに価値があると思うわけではない。
ただ、当事者として語れることの少なさは思う。

でも無理なものは無理なんで、
その距離を踏まえてどう語れるだろうと考える。

当事者でない人が当事者ぶること、距離や関係を捏造することは、いやらしいなと思う。

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